菜穂子はもう何も考えずに、雪のふる窓外へ目をやって、暮がたの谷間の向うにさっきから見えたり消えたりしている、何んだかそれとすっかり同じものを子供の頃に見たような気のする、教会の尖(とが)った屋根をぼんやり眺め続けていた。
圭介は時計を出して見た。菜穂子は彼の方をちらっと見て、
「どうぞもうお帰りになって頂戴。あしたも、もう入らっしゃらなくともいいわ。一人で帰れるから」と云った。
圭介は時計を手にした儘、ふと彼女が明朝こんな雪の中を帰って行って、もっと雪の深い山の中でまた一人でもって暮らし出す様子を思い描いた。彼はこの頃忘れるともなく忘れていた強烈な消毒薬や病気や死の不安のにおいを心によみ返らせた。なにか魂をゆすぶるもののように。……
菜穂子はその間、うつけたようになり切った夫の顔を見守っていた。彼女は何んとはなしに無心なほほえみらしいものを浮べた。ひょっとしたら夫がいまにもその瞬間の彼女の心の内が分かって、「もう二三日此のホテルにこの儘居ないか。そうして誰にも分からないように二人でこっそり暮らそう。……」そんな事を云い出しそうな気がしたからであった。
が、夫は何か或考えを払いのけでもするように頭を振りながら、何も云わずに、それまで手にしていた時計を徐(しず)かに衣嚢(かくし)にしまっただけだった。もう自分は帰らなければならないと云う事をそれで知らせるように。……
菜穂子は、圭介が雪を掻き分けながら帰えるのをうす暗い玄関に見送った後、その儘硝子戸(ガラスど)に顔を押しあてるようにして、何か化け物じみて見える数本の真白な棕梠(しゅろ)ごしに、ぼんやりと暮方の雪景色を眺めていた。雪はまだなかなか止みそうもなかった。彼女は暫くの間、今の自分の心の内と関係があるのだかないのだかも分からないような事をそれからそれへと思い出しては、又、それを傍からすぐ忘れてしまっているような、空虚な心もちを守っていた。それは何もかもが片側だけに雪を吹きつけられている山の駅の光景だったり、今しがたまで見ていたのにもうどうしてもそれを何時見たのだか思い出せない何処かの教会の尖塔(せんとう)だったり、明の何かをじっと堪えているような様子だったり、喚きながら雪投げをしている沢山の子供達だったりした。……
そのとき漸っと彼女が背を向けていた広間の電灯が点(とも)ったらしかった。そのために彼女が顔を押しつけていた硝子が光を反射し、外の景色が急に見にくくなった。彼女はそれを機会に、今夜この小さなホテル――さっきから外人が二三人ちらっと姿を見せたきりだった――に一人きりで過さなければならないのだと云う事をはじめて考え出した。しかしこの事は彼女に佗(わ)びしいとか、悔(くや)しいとか、そう云うような感情を生じさせる暇(いとま)は殆どなかった。一つの想念が急に彼女の心に拡がり出していたからだった。それは自分がきょうのように何物かに魅せられたように夢中になって何か手あたりばったりの事をしつづけているうちに、一つ所にじっとしたきりでは到底考え及ばないような幾つかの人生の断面が自分の前に突然現われたり消えたりしながら、何か自分に新しい人生の道をそれとなく指し示していて呉れるように思われて来た事だった。
彼女はそんな考えに耽(ふけ)りながら、もうぼおっと白いもののほかは何も見えなくなり出した戸外の景色を、まだ何んという事もなしに、眺め続けていた。そうやって冷い硝子に自分の顔を押しつけるようにしているのが、彼女にはだんだん気持ちよく感ぜられて来ていた。広間のなかは彼女の顔がほてり出す程、暖かだったのだ。彼女はこう云う気持ちよさにも、自分が明日帰って行かなければならない山の療養所の吸いつくような寒さを思わずにはいられなかった。……
給仕が食事の用意の出来たことを知らせに来た。彼女は黙って頷(うなず)き、急に空腹を感じ出しながら、その儘自分の部屋へは帰らずに、さっきから静かに皿の音のし出している奥の食堂の方へ向って歩き出した。