高田馬場の漫画喫茶から投稿してます。
結構静かで快適です。
人も少なそうですし
新宇宙艇
月世界探険(つきのせかいたんけん)の新宇宙艇は、いまやすべての出発準備がととのった。
東京の郊外(こうがい)の砧(きぬた)といえば畑と野原ばかりのさびしいところである。そこに三年前から密(ひそ)かにバラック工場がたてられ、その中で大秘密(だいひみつ)のうちに建造されていたこのロケット艇(てい)は、いまや地球から飛びだすばかりになっていた。魚形水雷(ぎょけいすいらい)を、潜水艦ぐらいの大きさにひきのばしたようなこの銀色の巨船は、トタン屋根をいただいた梁(はり)の下に長々と横たわっていた。頭部は砲弾のように尖(とが)り、その底部には、缶詰を丸く蜂の巣がたに並べたような噴射推進装置(ふんしゃすいしんそうち)が五層(ごそう)になってとりつけられ、尾部は三枚の翼(つばさ)をもった大きな方向舵(ほうこうだ)によって飾られていた。銀胴(ぎんどう)のまん中には、いまポッカリと丸い窓が明いている。いや窓ではない。人間が楽にくぐれるくらいの出入口なのだ。その出入口をとおして、明るい室内が見える。電気や蒸気を送るためのパイプが何本となく壁を匍(は)いまわり配電盤には百個にちかい計器(メートル)が並び、開閉器(スイッチ)やら青赤のパイロット・ランプやら真空管が窮屈(きゅうくつ)そうに取付けられていて、見るからに頭の痛くなるような複雑な構造になっていた。
通信係の六角進(ろっかくすすむ)少年は、受話器を耳にかけたまま、机の上に何かしきりと鉛筆をうごかしていたが、やがて書きおえると、ビリリと音をさせて一枚の紙片(しへん)を剥(は)いで立ち上った。そこで電文をもう一度読みなおしてから、受話器を頭から外(はず)し、
「艇長(ていちょう)、艇長。……ウイルソン山天文台(てんもんだい)から無電が来ましたよ」
といって、後をふりかえった。
「なに、ウイルソン山天文台からまた無電が……」
艇長の蜂谷学士(はちやがくし)は、手を伸ばして、進少年のさしだす紙片(しへん)をうけとった。その上には次のような電文がしたためられてあった。
「ワレ等ノ最後ノ勧告(かんこく)デアル。『危難(きなん)ノ海』附近ニハ貴艇ノ云ウガ如キ何等ノ異変ヲ発見セズ。貴艇ノ観測ハ誤(あやま)リナルコト明(あきら)カナリ。ワガ忠告ヲ聞クコトナク出発スレバ、貴艇ノ行動ハ自殺ニ等シカラン」「自殺ニ等シカラン――か。そういわれると、こちらの望遠鏡がいいのだと分っていても、やっぱりいい気持はしないナ」
と、蜂谷学士は呟(つぶや)いた。
この新宇宙艇が、非常な決心のもとに、新(あら)たに月世界探険に飛びだしてゆくのは、一つには今から十年前の昭和十一年の夏、進少年の父親である六角博士(ろっかくはかせ)ほか二名が月世界めざしてロケット艇をとばせたまま行方不明となった跡を探し、ぜひ月世界探険に成功したいというためでもあったけれど、もう一つには、このたびの探険隊の持つ電子望遠鏡が、最近はからずも月世界の赤道(せきどう)のすこし北にある「危難の海」に奇怪(きかい)な異物(いぶつ)を発見したためであった。その異物はたいへん小さい白い点であって、正体はまだ何物とも分らなかったけれど、とにかく今から五十四日前に突然現われた物であって、それは以前には決して見当らなかったものであった。そもそも月世界(つきのせかい)は空気もない死の世界で、そこには何者も棲(す)んでいないものと信ぜられていた。だから「危難の海」に現われたこの小さい白点(はくてん)は、月世界の無人境説(むじんきょうせつ)の上に、一抹(いちまつ)の疑念(ぎねん)を生んだ。
念のために、二百吋(インチ)という世界一の大きな口径の望遠鏡をもつウイルソン山天文台に知らせて調べてもらった。しかしその天文台では、「何(な)にも見えない」という返事をして来たのだった。そしてわが新宇宙艇が月世界探険にのぼる決心だと知るとたいへん愕(おどろ)いて、その暴挙(ぼうきょ)をぜひ慎(つつ)しむようにといくども勧告をしてきたのだった。それにもかかわらず、蜂谷艇長はじめ四人の乗組員の決心は固く、この探険を断念(だんねん)はしなかったのである。だがもしここに乗組員の一人である理学士天津(あまつ)ミドリ嬢が苦心の結果作りあげた世界に珍らしい電子望遠鏡という名の新型望遠鏡がなかったとしたら、そのときは或いはこの探険を思いとどまったかも知れないけれど……。ミドリ嬢の計算によると、彼女の新望遠鏡は、ウイルソン山天文台のものよりも二十倍も大きく見える筈だった。だから月世界に、乗合(のりあい)バスぐらいの大きさのものがあったとしたら、それは新望遠鏡には丁度一つの微小(びしょう)な点となって見えるだろうという……。
「ミドリさんに早く知らせてやろうと思うが、何処(どこ)へ行ったんだろうな。……」
と、蜂谷学士はロケットの胴中(どうなか)を出て、土間(どま)に下り立った。
「ミドリさーん。……」
学士は大きな声をだして、女理学士の名を呼んだ。だがどこにも返事がなかった。彼の顔は俄(にわ)かに不安に曇(くも)った。
「どこへ行ったんだろう。オイ進君、君も探してくれ。
……ミドリさーん。……」
「えッ、ミドリさんがいないのですか」
進少年もロケットの胴中から飛び出して来た。
「ミドリさーん」
二人は声を合わせてミドリの名を呼びながら、小屋の戸を開いて外へ出てみた。外は真昼のように明るかった。八月十五日の名月が、いま中天(ちゅうてん)に皎々(こうこう)たる光を放って輝いているのだった。……
「おお、ミドリさん。……こんなところにいたんですか。一体どうしたというんです」
学士は、戸外に悄然(しょうぜん)と立っているミドリの姿を見て、愕(おどろ)きの声を放った。
出発直前の殺人
彫刻のように立っていたミドリは、このとき右腕をあげて無言で前方を指した。
「ナ、なッ……」
学士は愕いて、ミドリの指す前の草叢(くさむら)を見た。
「呀(あ)ッ。……羽沢(はざわ)飛行士が倒れている! これはどうした。ああッ……」
傍(かたわら)へかけよってみると、乗組員の一人である飛行士が白いシャツの胸許(むなもと)のところを真赤(まっか)に染めて倒れていた。調べてみると、彼は心臓の真上を一発の弾丸で射ぬかれて死んでいた。一体こんなところで誰に撃ち殺されたのだろう?
「……ああ、おしまいだ。折角(せっかく)のあたし達の探険……」
ミドリは悲しげに叫ぶと、ガッカリしたのか、大地の上にヘタヘタと身体を崩(くず)した。それは見るも気の毒な気の落としようだった。ミドリの兄は天津百太郎(あまつももたろう)といって、失踪(しっそう)したロケットの操縦士だった。彼女はこんどの探険を企(くわだ)てたのも、恨(うら)みをのんで死んだろうと思われる兄の霊(れい)を喜ばそうためだった。それだのに羽沢飛行士は壮途(そうと)を前にして、突然死んでしまった。ミドリの悲しみは、察するだに哀(あわ)れなことだった。
「……仕方がない。これも神さまのお心かもしれないよ」と艇長はやさしく彼女の肩に手をおいて云った。「残念だが、このたびは中止をしよう」
そのときだった。向うの街道(かいどう)から、ヘッドライトがパッとギラギラする両眼をこっちに向けて、近づいてくる様子。
「ああ、誰かこっちへ来る……」
と、進少年は叫んだ。
近づいて来たのを見ると、それは競争用の背の低い自動車だった。やがて自動車は、小屋の前に止り、中から出てきたのは、色の浅ぐろい飛行士のような男だった。
「ああ、猿田さんだッ……」
猿田とよばれた男はツカツカと一同の前に出てきて、
「ああ皆さん。御出発に際して、お見送りの言葉を云いに来ましたよ」
ミドリはそのとき、スックと立ち上った。
「ああ猿田さん。いいところへ来て下すったわ。……貴方(あなた)この宇宙艇を操縦して月世界(つきのせかい)へ行って下さらない」
「ああミドリさん、ちょっと……」
と艇長の蜂谷学士がとどめた。しかしミドリはその言葉を遮(さえぎ)ってまた叫んだ。
「ね、猿田さん。行って下さるでしょうネ。貴方が操縦して下さらないと、あたしたちは十年目に一度くる絶好のチャンスを逃がしてしまうんですもの。ぜひ行って下さいナ。……貴方は前からこの宇宙艇を操縦したいといってらしたわネ」
「ええ、お嬢さん。僕は決心しましたよ。僕がこの艇を操縦してあげましょう」
「まあ待ちたまえ」
と蜂谷学士が云いかけるのを、ミドリは
「……まア蜂谷さん。まさか貴方はこれから十年して、あたしがお婆さんになるのを待って、月の世界にゆけとおっしゃるのではないでしょうネ」
「……」
蜂谷学士は、なぜか猿田飛行士が探険に加わることを好まぬ様子だったが、ミドリは滅多(めった)に来ないチャンスを惜しむあまり、とうとう羽沢飛行士の代りに猿田飛行士を頼むことにきめてしまった。
艇の出発はいよいよ間近(まぢ)かになった。のこっているのは、飲料水の入った樽(たる)がもうあと十個ばかりだった。一同は力をあわせて、この最後の荷物を搬(はこ)びこんだ。
「さあこれで万端(ばんたん)ととのった。……進君、もう一度宇宙艇のなかを探してくれたまえ。万一密航者などがコッソリ隠れていると困るからネ……」
厳重(げんじゅう)な艇内捜索が始まった。樽のうしろや、器械台の下などを入念に調べたが別に怪しい密航者の影も見あたらなかった。
「さあ、密航者はいませんよ。もう大丈夫です」
進少年は、そう叫んだ。
「では出発だ。扉(ドア)を締めて……」
重い二重扉(にじゅうドア)がピタリと閉(と)じられ、四人の乗組員は、それぞれ部署についた。蜂谷学士は、ロケットの一番頭にちかい司令席につき六つの映写幕を持ったテレビジョン機の中を覗(のぞ)きこんだ。そこにはこの宇宙艇の前方と後方と、それから両脇と上下との六つの方角が同時に見透(みとお)しのできる仕掛けによって、居ながらにして、宇宙艇のまわりの有様がハッキリと分った。
そのすこし後には、進少年がラジオの送受機(そうじゅき)を守って、皮紐(かわひも)のついた座席に身体を結びつけた。その横にはミドリ嬢が同じように頑丈(がんじょう)な椅子に身体を結びつけていたが、これは沢山の計器(メーター)と計算機とをもって、宇宙艇の進行に必要な気象を観測したり、また進路をどこにとるのがいいかなどということについて計算をするためだった。
一ばん後方には、飛び入りの猿田飛行士が複雑な配電盤を守っていた。そこでは艇長の命令によって、刻々(こくこく)方向舵を曲げたり、噴射気(ふんしゃき)の強さを加減してスピードをととのえたり空気タンクや冷却水の出る具合を直したりするという一番重大で面倒な役目をひきうけていたのだった。
「出航用意!」
艇長は伝声管(でんせいかん)を口にあてて叫んだ。
「出航用意よろし」
と猿田飛行士のところから、返事があった。
「進路は小熊座(こぐまざ)の北極星、出航(しゅっこう)始めッ」
ついに蜂谷艇長は、出発命令を下した。猿田が開閉器(かいへいき)をドーンと、入れると、たちまち起るはげしい爆音、小屋は土砂(どしゃ)に吹きまくられて倒壊(とうかい)した。そのとき機体がスーッと浮きあがったかと思うと、真青(まっさお)な光の尾を大地の方にながながとのこして、宇宙艇はたちまち月明(げつめい)の天空(てんくう)高くまい上った。
宇宙旅行
わずか五秒しかたたないのに、新宇宙艇は富士山の高さまで昇った。
スピードはいよいよ殖えて、それから十秒のちには、成層圏(せいそうけん)に達していた。窓外(そうがい)の空は月は見えながらも、だんだん暗さを増していった。
そこで新宇宙艇の進路が変った。大空の丁度(ちょうど)ま上に見える琴座(ことざ)の一等星ベガ一名(いちめい)織女星(しょくじょせい)を目がけて、グングン高くのぼり始めた。
地球から月世界までの距離は、三十八万四千四百キロメートルという長いもの、それをこの新宇宙艇は、僅(わず)か十日間で飛び越そうという計算であった。
進路がベガに向けられて、早や三日目になった。もうあたりは黒白(あやめ)も分らぬ闇黒(くらやみ)の世界で、ただ美しい星がギラギラと瞬(またた)くのと、はるかにふりかえると、後にして来た地球がいま丁度夜明けと見えて、大きな円屋根(まるやね)のような球体(きゅうたい)の端(はし)が、太陽の光をうけて半月形(みかづきがた)に金色(こんじき)に美しくかがやきだしたところだった。
蜂谷艇長は、観測台のところに立って、しきりにオリオン星座のあたりを六分儀(ろくぶぎ)で測(はか)っていたが、やがて器械を下に置くと、手すりのところへ近づいて、下にいるミドリの名を呼んだ。
「ねえ、ミドリさん……」
「アラ、どうかなすって?」
ミドリは星座図の上に三角定規(じょうぎ)をパタリと置いて、艇長の顔を見上げた。
「どうも可笑(おか)しいんですよ。もう丸三日になるので、十二万キロは来ていなきゃならないのに、たいへん遅れているんです。始め試験をしたときのような全速度が出ないのです。よもや貴方(あなた)の計算に間違いはないでしょうネ」
「いえ、計算は三つの方法ともチャンと合っていますわ。間違いなしよ」
「間違いなし。……するとこれは、何か別に重大なるわけがなければならんですなア」
そういって蜂谷艇長は腕をこまねいて考えに沈んだ。
「私の運転の下手(へた)くそ加減(かげん)によるというんでしょう、ねえ艇長!」
猿田飛行士が、底の方からいやみらしい言葉を投げかけた。
「そうは思わないよ。黙っていたまえ君は……。おう、進君、やがて水を配(くば)る時間だ。第四の樽を開けて置いて呉(く)れたまえ」
進少年は、通信機のそばを離れて、下に降りていった。床(ゆか)にポッカリと明(あ)いた穴に身体を入れて見えなくなったと思うと、それから間もなく、ワッという悲鳴と共に、一同を呼(よ)ぶ声が聞えてきた。
艇長は残りの二人を手で制して、ピストル片手に単身(たんしん)底穴(そこあな)に降りていったが、軈(やが)て激しい罵(ののし)りの声と共に、見慣れない一人の青年の襟(えり)がみをとって上へ上って来た。
「密航者だ。……この男がいるせいで、この艇が一向計算どおり進行しなかったんだ。なぜ君はわれわれの邪魔をするんだ。君は一体誰だい」
「まあそう怒(おこ)らないで、連れていって下さいよ、僕は新聞記者の佐々砲弾(さっさほうだん)てぇんです。僕一人ぐらい、なんでもないじゃないですか」
この不慮(ふりょ)の密航者をどうするかについて、艇では大議論が起った。もう地球から十二万キロも離れては、彼を落下傘(パラシュート)で下ろすわけにも行かなかった。そんなことをすれば死んでしまうに決っている。艇長は云った。
「このまま連れてゆくか、それとも引返すかどっちかだ。連れてゆくのなら、食料品が足りないから、今日から皆の食物の分量を四分の一ずつ減(へら)すより外(ほか)ない」
真先(まっさき)に反対したのは、猿田飛行士だった。
「密航するなんて太い奴だ。構(かま)うことはない。すぐに外へ放り出して下さい。たった一つの楽しみの食物が減るなんて、思っただけでもおれは不賛成だ」
といって、頬をふくらませた。ミドリは引返すことに反対した。艇長は遂(つい)に云った。気の毒ながら、この向う見ずの記者に下艇(げてい)して貰うより外はないと。すると先刻(さっき)からジッと考えこんでいた進少年が大声で叫(さけ)んだ。
「艇長さん、それは可哀想(かあいそう)だなア。……じゃいいから、僕の食物を、この佐々(さっさ)のおじさんと半分ずつ食べるということにするから、このままにしてあげてよね、いいでしょう」
「おれの食物の分量さえ減らなきゃ、あとはどうでも構わないよ」
と猿田は云った。
艇長はようやく佐々記者を艇内に置くことを承認した。――佐々はどうなることかとビクビクしていたが、進少年の温い心づかいのため救われたので、少年の手をグッと握りしめ、心から礼を云った。
「あなたは僕の命の恩人だ。……いまにきっと、この御恩(ごおん)はかえしますよ」といった後で、誰にいうともなく「いや世の中には、豪(えら)そうな顔をしていて、実は鬼よりもひどいことをする人間が居(お)るのでねえ……」
と、意味ありげな言葉を漏(も)らした。
月世界上陸
月世界(つきのせかい)の探険に於(おい)て、一番難所といわれるのは、無引力空間(むいんりょくくうかん)の通過だった。その空間は、丁度(ちょうど)地球の引力と月の引力とが同じ強さのところであって、もしそこでまごまごしていたり、エンジンが止(とま)ったりすると、そこから先、月の方へゆくこともできず、さりとて地球の方へ引かえすことも出来ず宙ぶらりんになってしまって、ただもう餓死(がし)を待つより外しかたがないという恐ろしい空間帯(くうかんたい)だった。
蜂谷艇長(はちやていちょう)の巧(たく)みな指揮が、幸(さいわ)いにエンジンを誤らせることもなく、無事に危険帯を通過させたのだった。乗組員四名――いやいまは五名である――は、ホッと安堵(あんど)の胸をなで下ろした。
やがて地球を出発してから十二日目、いよいよ待ちに待った月世界に着陸するときが来た。ここでは月は、まるで大地のように涯(はて)しなく拡(ひろ)がり、そして地球は、ふりかえると遥かの暗黒(あんこく)の空に、橙色(だいだいいろ)に美しく輝いているのであった。
「さアいよいよ来たぞ」と艇長はさすがに包みきれぬ喜色(きしょく)をうかべて云った。「じゃ大胆に『危難(きなん)の海(うみ)』の南に聳(そび)えるコンドルセに着陸しよう。皆、防寒具(ぼうかんぐ)に酸素吸入器(きゅうにゅうき)を背負うことを忘れないように。……では着陸用意!」
「着陸用意よろし」
猿田飛行士は叫んだ。彼はすっかり隙間(すきま)のないほど身固(みがた)めし、腰にはピストルの革袋(かわぶくろ)を、肩から斜(なな)めに、大きな鶴嘴(つるはし)を、そしてズックの雑袋(ざつぶくろ)の中には三本の酒壜を忍ばせて、上陸第一歩は自分だといわんばかりの顔つきをしていた。
「……着陸始めッ……」
艇は速度をおとし、静かに螺旋(らせん)を描(えが)きながら、荒涼(こうりょう)たる月世界(つきのせかい)に向って舞(ま)いおりていった。
「ねえ蜂谷さん。着陸してから、どうなさるおつもり」
とミドリがいった。
「やはり貴女(あなた)の電子望遠鏡にうつった白点(はくてん)を真先(まっさき)に探険するつもりですよ。途中いろいろと観測しましたが、あれは大きな孔(あな)なんですネ。しかも地球にある階段に似たものが見えるんですよ。ひょっとすると、人間が作ったものかも知れませんネ」
「ああ、もしや六角博士(ろっかくはかせ)や兄が生きていて、その階段を築いたのではないでしょうか」
「さあ……」艇長は、十年前(ぜん)に探険に出かけた博士たちが今まで月世界に生きているものですかと云おうとして、やっと思いとどまった。「それならいいのですがねえ」
「あたしも御一緒に参りますわ。ああ嬉しい」
そのとき進少年が、艇の底にある倉庫から上ってきた。
「艇長さん、食料品がすこし心細くなったよ。直ぐ引返すとしても、帰りの路は半分ぐらいに減食(げんしょく)しないじゃ駄目だ。ことに水が足りやしない。なにしろ一つの水槽(すいそう)の中に、記者の佐々おじさんが隠れていたんだものねえ。あはははッ」
それを聞くと、猿田飛行士は、ギョロリと眼玉を動かした。
艇はその間にだんだん下降して、とうとう真白な砂地(すなじ)にザザーと砂煙りをあげながら着陸した。
ここに哀(あわ)れを止(とど)めたのは、密航者の佐々砲弾(さっさほうだん)だった。折角(せっかく)ここまでついて来たものの、艇長は彼が上陸することを許さなかった。砲弾という勇しい名をもった彼も、今更(いまさら)どうする力もなく、黙ってその命令を聞くより仕方がなかった。
新宇宙艇の二重になった丸い出入口は、久方(ひさかた)ぶりで内側へ開かれた。一行四名はマスクをして艇長を先頭に外へ出ていった。
丁度その上陸地点は、太陽の光を斜めに受けて、かなり気温は高い方だったのは意外だった。
砂地に下りたって歩きだすと、身体に羽根が生えたようにフワフワと浮いた。それは地球とちがい、月の世界では引力がたいへん小さいせいだった。
一行は、「危難の海」といわれる平原に見えた白い斑点をさして歩きだした。月には一滴(いってき)の水もない。だから地球から見ると海のように見えるところも、来てみれば何のことか、それは平原に過(す)ぎないのであった。さて一行のうち、猿田飛行士一人は、他の三人をズンズン抜いて、猛烈なスピードで前進していった。ミドリはさすがに女だけあって、とても猿田の半分のスピードも出ず、従(したが)って三人は一緒に遅れて、猿田との距離はみるみる非常に大きくなっていった。
三人は慣れないマスクと、歩きにくい砂地とに悩みながら、三十分ほども歩いたが、そのとき、前方からキラキラと煌(かがや)くものがこっちへ近づいて来るのを発見した。
「あッ、誰かこっちへ来る。月の世界の生物じゃないかしら」
進少年の発した愕(おどろ)きの言葉に、一行ははっとして、荒涼(こうりょう)たる砂漠の上に足を停(とど)めた。
絶望
「――ああ、何のことだ、あれは月の世界の生物でなくて、地球の生物で、あれは飛行士の猿田君なんですよ」
と、艇長は双眼鏡を眼から外(はず)していった。
「まあ猿田さんが……。どうしたんでしょう」
なおも進んでゆくと、果(はた)して前方から、猿田飛行士が大ニコニコ顔で近づいてきた。
「オイどうした。なにか階段のある穴のところまで行ったかネ」
「ああ行って来ましたよ。素晴らしいところです。私は道傍(みちばた)で、こんな黄金(おうごん)の塊(かたまり)を拾(ひろ)った。まだ沢山落ちているが、とても拾いつくせやしません。早く行ってごらんなさい」
そういいすてると、彼は歩調(ほちょう)もゆるめず、大きなマスクの頭をふりたてて、ドンドン元(もと)来(き)た道に引返(ひきかえ)していった。
「あの男(ひと)、あんなに急いで帰って、どうするつもりなんでしょう。変ですわネ」
と、ミドリは不安そうに、遠去(とおざ)かりゆく猿田の後姿をふりかえった。
「あの黄金の塊を艇の中に置いて、また引返して来て拾うつもりなんですよ。……いやそう慾ばっても、そんなに積ませやしませんよ。だがあの男は抜目(ぬけめ)なしですネ。はッはッはッ」
一行は先を急いだ。あと十分ばかりして、彼等ははるばるこの月世界まで尋ねて来た最大の目的物を探しあてることができた。
「あッ、これが白い点に見えたところだ。ごらんなさい。附近の砂地とは違って、大穴が明(あ)いている。ホラ見えるでしょう。幅の広い階段が、ずッと地下まで続いている」
「あら、随分(ずいぶん)たいへんだわ。……ねえ、蜂谷さん。あの階段は黄金でできているのですわ。猿田さんが持っていったのは、その階段の破片(はへん)なんですわ。ホラそこのところに、破片(はへん)が散らばっていますわ。ぶっかいたんだわ、まあひどい方……」
進少年は、かねて月の世界には黄金が捨てるほどあると聞いたが、こんな風に地球の石塊(せきかい)と同じように、そこら中(じゅう)に無造作(むぞうさ)に抛(ほう)りだしてあるのを見ては、夢に夢みるような心地がした。
「私の喜びは、月世界(つきのせかい)の黄金よりも、このような階段を作る力のある生物が棲(す)んでいたという発見の方ですよ」
と、蜂谷艇長は興味深げに黄金階段の下を覗(のぞ)いてみるのだった。
そのときだった。
「あれッ、おかしいなア」
と進少年が、頓狂(とんきょう)な声をあげた。蜂谷とミドリは愕(おどろ)いて少年の方をふりかえった。少年の顔色がセロファン製のマスク越しにサッと変ったのが二人に分った。
「あ、あれごらん」と少年は手をあげて前方を指した。その指す方には、空気のない澄明(ちょうめい)なる空間をとおして、新宇宙艇の雄姿(ゆうし)が見えた。「誰か、艇内からピストルを放(はな)ったよ。撃たれた方が、いま砂地に倒れちゃった。誰がやられたんだろう」
「おお大変」とミドリは胸をおさえて、「艇内に居たのは、新聞記者よ。いま帰った猿田さんが撃たれたんでしょ。大体あの記者、怪しいわ。出発のときにだって、艇内に忍びこむ前に、ピストルで羽沢(はざわ)飛行士を撃ったのかも知れなくてよ」
と、ミドリ嬢はハッキリ物を云った。
「さあ、どっちにしても大変だ。さあ急いで傍(そば)に行ってみましょう」
艇長はすぐ先頭に立って、艇の方へ駈けだしていった。
そのとき、繋(つな)いであった新宇宙艇の尾部(びぶ)から、ドッと白い煙が上ったと思うと、艇は突然ユラユラと頭部をふると見る間に、サッと空に飛び上ってしまった。
「呀(あ)ッ、大変だ。艇が動きだしたぞ。これは一大事……。ま待てッ」
「アラどうしましょう。……」
といっている間(ま)に、艇の姿は青白い瓦斯(ガス)を噴射(ふんしゃ)しながら、グングン空高くのぼって、みるみる遠ざかっていった。
艇長とミドリと進の三人は、あまりの思いがけぬ出来ごとのため、死人のような顔色になって駈けつけたが、もう間に合わなかった。ただ艇の繋(つな)いであったところに、マスクを被(かぶ)った人間が一人、脚をピストルで撃たれて朱(あけ)に染(そ)まって倒れているのを発見したばかりだった。
それを助け起してみると、なんのこと、艇内に残っているように命じてあった佐々(さっさ)記者だった。彼は深傷(ふかで)に気を失っていたが、ようやく正気(しょうき)にかえって一行に縋(すが)りついた。
「猿田飛行士が、艇にひとり乗って逃げだしたのです。はじめ猿田さんは、金塊(きんかい)を持って艇内に入って来ましたが、もう一度取りにゆくから一緒にゆけといって、私を先に地上に下ろすと、私の隙(すき)をうかがってドンとピストルで撃ったのです。今だから云いますが、あの人は恐(おそ)ろしい殺人犯ですよ。私が砧村(きぬたむら)にある艇内に忍びこむ前のことでしたが、小屋の前に立っていた人(羽沢飛行士のこと)をピストルで撃ち、待たせてあった自動車にのって逃げるのをハッキリ見て知っているのです。全く恐ろしい人です」
「ああ、それで分ったわ。猿田は月世界(つきのせかい)の黄金(おうごん)目あてに是非この探険隊に加わりたくて、羽沢さんを殺したんですわ。そして何喰わぬ顔をして、参加を申し出たのよ。それとも知らず、あたしが参加を許したりして……ああどうしましょう。もう地球へは戻れなくなったわ。ああ……」
四人は顔を見合わせて、深い絶望に陥(おちい)った。
黄金(おうごん)階段を下る
さすがに艇長だけあって、蜂谷学士は決心を定(き)めて顔をあげた。
「さあ、地球へ帰れないなんて、始めから決心していたことで、今更(いまさら)歎(なげ)いても仕方がないことですよ。それよりも、こうなったら探険隊の仕事をすこしでもして置きたいと思いますが、どうです。私は例の階段を下に下りてみようと思うのです。何だかあの下には、生物が住んでいるような気がしてならないのです。さあ皆さん、元気を出して下さい」
艇長の言葉はよく分った。死ぬ覚悟(かくご)さえつけば、何の恐るるところもない。そこで三人は負傷している佐々記者を担(かつ)いで、黄金の階段の方へ引返していったのだった。
するとどうしたことだろう。さっきは誰もいなかったと思うのに、黄金階段の上には紛(まぎ)れもなく人間の形をした者が一人立っていて、しきりにこちらを見ていたが、やがて明瞭(めいりょう)な日本語で、
「おお、そこにいるのは、妹のミドリではないか」
愕(おどろ)いたのはミドリだった。
「……ああら、兄(にい)さま。まア……」
と叫ぶなり、彼女は死んだものとばかり思っていた兄の天津(あまつ)飛行士の胸にワッとばかり縋(すが)りついた。
その場の事情を悟(さと)るなり、進少年はにわかに興奮して、
「おじさん。僕の父はどこに居ます。早く教えて下さい」
「おお、あなたのお父さんとは……」
「それ六角博士(ろっかくはかせ)ですよ。僕は六角進(ろっかくすすむ)なんです!」
「ナニ六角進君。ああそうでしたか。隊長の坊ちゃんでしたか。まあよく月の世界まで尋(たず)ねて来られましたネ」
「早く父に会わせて下さい。どこにいるのですか」
「ああ、お父さまですか。……」といって天津飛行士はちょっと顔を曇(くも)らせたが「……実はお父さまはこの地底(ちてい)で病気をしていらっしゃいます。しかしあなたをごらんになれば、どんなに元気におなりか分りませんよ。さあ参りましょう」
天津は先に立って、黄金階段を下りはじめた。「地底(ちてい)」へ下りてゆく間に、一行は始めて月の世界の生物の話を聞くことができて、奇異(きい)の想(おも)いにうたれた。
それによると、月の世界の表面には、何も住んでいない。それは第一空気もなく水もないし太陽が直射すると摂氏(せっし)の百二十度にも上(のぼ)るのに、夜となれば反対に零下百二十度にも下(くだ)ってしまうという温度の激変(げきへん)があって、とても生物が住めない状態にあった。しかし月世界に生物が全く居ないわけではない。この世界にもやっぱり数億人の生物が住んでいるのだった。彼等は皆、月の地中深く穴居(けっきょ)生活をしているのだった。地中はまだ暖く、早春(そうしゅん)ぐらいの気候だそうで、そこには空気もあり、また水もあるのだという。その月の生物も人間と別に大した変りはないが、まだ智恵はあまり発達していないという。とにかく意外なる月の地中(ちちゅう)社会のお蔭で、一行は寒さに倒れることもなくて助かった。
ただ気の毒なのは、進の父六角博士の容態(ようだい)だった。博士は老衰病(ろうすいびょう)のため、ひどく弱っていて、動かすことも出来ない有様だった。
その夜一行は、物珍らしい月の人間に囲まれていろいろな話をしたり聞いたり、また奇妙な食物を御馳走になったりして過ごした。一行は寂(さび)しさから紛(まぎ)れて、こうして三晩を過ごしたのだった。
それは四日目の朝に相当する時刻だった。もっとも月の世界では、十四日間も昼間ばかりぶっつづき、あとの十四日は夜ばかりつづくという変な世界だったので、事実はいつも明るかったのだった。とにかくその朝、天津(あまつ)飛行士の作った黄金階段に見張りに出ていたクヌヤという月の住人が急いで天津のところへ駈けつけてきた。
「なんだか真白な、大きなものが砂地に突立(つきた)っていますよ」
真白な大きなもの――というので、天津は蜂谷たちに知らせると、急いで階段をのぼった。上(あが)ってみると、なるほど砂中(さちゅう)からニュウと出ている銀色の板――。
「おお、これは宇宙艇じゃないか」
それでは、猿田の操縦していった新宇宙艇が、墜落(ついらく)してきたのであろうか。一行は非常な興味をもって、これを砂中(さちゅう)から掘りだしてみた。
「ウンこれは違う。新宇宙艇ではない」
と蜂谷学士は首を左右にふった。
「オヤオヤ」突然横合(よこあい)から叫んだのは天津飛行士だった。「これは愕(おどろ)いた。奇蹟中の奇蹟! 六角隊長と私とをこの土地に残して、空に飛びだした第一の宇宙艇だ」
恐ろしき違算(いさん)
「あらマア、不思議なことネ」
「全く貴女がたの場合と同じような事件だったので。そのときも一行中に犬吠(いぬぼえ)という慾の深い男がいて、月の世界の黄金塊(おうごんかい)をギッシリ積むと、隊長と私とを残して置いて、単身(たんしん)飛びだしたんです。私は犬吠が地球にかえったとばかり思っていたのに、これは実に不思議だ。どれ内部を調べてみれば何か分るだろう」
蜂谷にミドリ、それに進も手をかして扉(ドア)をこじ明けると、内部を調べてみた。すると果(はた)せるかな、その中には慾深い犬吠が、黄金塊(おうごんかい)を抱(いだ)いて餓死(がし)しているのを発見した。
ところで喜んだのは一行だった。思いがけなく、旧(ふる)い型(かた)ではあるが宇宙艇が手に入ったので、地球へ帰る一縷(いちる)の望みができてきた。調べてみると、何という幸(さいわ)いだろう。燃料はかなり十分に貯(たくわ)えられていた。
「おお、神様、お蔭さまで地球へ帰れます」
一行はこの吉報(きっぽう)をきくと、躍りあがって喜んだ。だが何(ど)うしてこの宇宙艇が、月の世界に落ちて来たものだか、まだこのときは一向(いっこう)に解せない謎だった。
宇宙艇の修理は、僅かの日数で、一とおり出来上った。そこでこれに乗組む人の顔ぶれが問題になった。いろいろ議論はあったが、ついに、少し無理ではあったが、重病の六角博士を除いて、他の五人――つまり新宇宙艇の乗組員の中で、逃亡(とうぼう)した猿田飛行士の代りにミドリの兄の天津飛行士を加えただけで、あとはそのままの顔ぶれでもって、いよいよ地球へ向け帰還(きかん)の途(と)につくことになった。そして博士は、日を改(あらた)めて迎えに来ようということになった。
修理された古い宇宙艇が、すこしばかりの金塊(きんかい)を土産に、「危難(きなん)の海」近くコンドルセを出発したのは、月世界に到着してから十日後のことだった。
「さあいよいよ地球へ帰れるぞ」天津飛行士はエビス顔の喜び様(よう)だった。
「さあ、月世界よ、さよなら」
「さよなら、また訪問しますわ」
やはり艇長の役を引うけた蜂谷学士はミドリ嬢と窓に顔をならべて、荒涼(こうりょう)たる山岳地帯のうちつづく月世界に暇乞(いとまごい)をした。
「おじさん、今度は大威張(おおいば)りで帰れるネ」
「そうでもないよ、進君」
佐々と進少年はすっかり仲よしになってニコニコ笑っていた。
「出航!」
命令一下(いっか)、艇は静かに離陸していった。
「お父さま。いいお医者さまを連れて、お迎えに来るまでぜひ生きていて下さーい」
進少年は窓から、動く大地に祈った。
ロケット船宇宙艇のスピードは、だんだんと早くなった。艇内のエンジンは気持よく動き、各員はその持ち場を守ってよく働いた。佐々(さっさ)記者は、今度は食料品係を仰(おお)せつかってまめまめしく立ち働いていた。
「おう、ミドリさん、どうも困ったことができた」
「まアいやですわ、艇長さん。何(ど)うしたのですの」
「この旧型(きゅうがた)の宇宙艇は、スピードの割にとても燃料を喰うんです。このままで行くと、三十万キロは行けますが、あと八万キロが全く動けない勘定(かんじょう)です。これは地球へ帰れないことになった。ああ……」
当分二人だけの心配にして置いたが、出発後三日目には、どうしても公表しないわけにはゆかなくなった。
この公表に対しては、一同は俄(にわ)かに面(おもて)を曇(くも)らせた。楽しい帰還の旅が、にわかに不安の旅に変ってしまった。
「一体どうすりゃいいんです。艇長に万事(ばんじ)一任(いちにん)しますよ」
なんでも艇長の命令どおりにやるというのだった。そこで蜂谷はついに苦しい決心をしなければならなかった。
「皆さん。この上は誰か一人、この艇から下(お)りて頂(いただ)かねばなりません。それで公平のために抽籤(ちゅうせん)をします。赤い印のある籤(くじ)を引いた方は、貴(とうと)い犠牲(ぎせい)となって、この窓から飛び出して頂きます」一同は顔を見合わせた。
一本一本、運命の籤(くじ)は引いてゆかれる。ミドリが最初の籤を引いて、白だった。次は兄の天津が引いてこれがまた白。その次に籤を引いたのが進少年だった。
「……あッ赤だ。僕が下りるに決った」
一同はハッとして少年の顔を見た。
佐々記者は遂(つい)に決心して、前に自分の生命を救ってくれた少年に、このたびは自分の命を捧(ささ)げたいと申出たが、艇長ははじめの誓約(せいやく)をたてにして承知しなかった。悲惨(ひさん)なる光景だった。送る者の辛(つら)さは、去(ゆ)く者の悲しさに数倍した。
「じゃ、皆さん、ご機嫌よう!」
弱々しいことの嫌いな進少年は、決然として窓に近づくと、エイッと懸(か)け声(ごえ)もろとも艇外にとび出した。
「僕も一緒に行く。待って………」
呀(あ)ッという間もなく、つづいて窓外に飛び出したのは、進少年に助けられた恩のある佐々記者であった。それを見るより、艇長は素早く窓のところに身を寄せ、厳然(げんぜん)と云い放った。
「この尊い犠牲を生かさねば、われわれの義務は果せませんぞオ。――さあ全員配置について、スピードをあげましょう。ここは丁度、恐ろしい無引力空間の近くです。油断(ゆだん)は禁物(きんもつ)!」
艇長の眼は湧いてくる泪(なみだ)で、何も見えなかった。
奇蹟中の奇蹟
進少年と佐々(さっさ)記者が、蜂谷艇長の指揮する宇宙艇よりも一日早く、無事に地球に到着したといったら、読者は信じるだろうか。いや全くの奇蹟中(きせきちゅう)の奇蹟だった。わけを聞かないでは、誰も信じられないだろう。艇外は漠々(ばくばく)たる宇宙だ。死なない者なんてあるだろうか。
ところがこの幸運の二人の場合は、その極(きわ)めて稀(まれ)な場合だったのである。二人が飛び出したところは、丁度例の無引力空間だったのである。その空間では身体が上へも下へも落ちはしない。ただ抛(ほう)りだされたときの勢(いきお)いで、無引力空間をユラリユラリと流れるばかりだった。もちろん後から飛びでた佐々記者は進少年のところへ追いついた。
二人が手を取り合って、最後の覚悟を語りあっているところへ、横合から漂然(ひょうぜん)と流れて来た一個の巨船(きょせん)――それこそ意外中の意外、というべき猿田飛行士が乗り逃げをした筈(はず)の新宇宙号だった。
二人は夢かとばかり愕(おどろ)いた。なぜこんなところに新宇宙号がプカプカ浮んでいるのだろう。辿(たど)りついてよく見れば、噴射瓦斯(ふんしゃガス)へ通ずる電線の入ったパイプが何物かに当ったと見え断線(だんせん)していた。これでは瓦斯が止ってしまうのも無理はない。それにしても、空中でよほど硬い大きな物体に衝突しなければならない筈……。
進少年はハタと膝をうった。
「こう考えればいいのだ。――最初犬吠が乗り逃げした宇宙艇は、誤(あやま)ってこの無引力空間に陥(おちい)って、ここを漂(ただよ)っていたのだ。そこへまた今度、猿田の操縦した新宇宙艇が通りかかって、図(はか)らずもドーンと衝突した。そのときパイプが裂(さ)けて、動かなくなり、そのままこの無引力空間に漂い始めたんだ。一方、旧型(きゅうがた)の宇宙艇はこの衝突で跳ねとばされて、その勢いで月世界へ墜落(ついらく)していったものだろう」
「実にうまく出来ている。悪人の末路(まつろ)は皆こんなものだ」
と佐々(さっさ)も合槌(あいづち)をうった。
そこで二人は艇内をこじあけて工具をとり出し、パイプと電線とを外から修理して接ぎあわせ、そして新宇宙艇を再び操縦して地球へ急いだが、快速のため、蜂谷艇長の一行よりも早く帰りついたのだった。
猿田は艇内でピストル自殺をしていた。器械が動かなくなったので、観念したのだろうと思う。
全国の新聞やラジオは、進少年や密航記者佐々砲弾(さっさほうだん)の愕くべき奇蹟を大々的(だいだいてき)に報道した。すると祝電と見舞の電報とが、山のように二人の机上(きじょう)に集った。それは日本ばかりではなく、遠くベルリンやローマから、またロンドンやニューヨークからのものがあった。その大きな同情は、いま月世界に病(や)む進君の父六角博士をぜひ救い出さねばならぬという声にかわっていった。この分では老博士救助の新ロケットが飛びだす日もそう遠くはあるまい。
友人の友枝八郎は、ちょっと風変りな人物である。どんなに彼が風変りであるか、それを知るには、彼が私によく聞かせる夢の話を御紹介するのが捷径(はやみち)であろう。
かれ友枝は、好んで夢の話をした。彼が見る夢は、たいへん奇妙でもあり、そして随分しっかりした内容をもっていて、あまり夢を見ることのない私などにとっては、美しくもあれば、ときにはまた薄気味わるく感ずることもあるのだ。(乃公(おれ)は夢で、同じ町を幾度となく見る)と、彼は空ろな眼をギロリと動かしていうのであった。(……ああ、いつか来た町へまた出たよ、とそう感付くのだよ。すると、夢の中だけで知り合いになったいろいろな顔の人物が、あとからあとへと現われてくるのだ。年配の男もあれば、妙齢の女もある。……乃公はその不思議な人物たちと、永い物語の次をまた続けてするように、前後があった話をし合うのだ。しかしどっちかというといつも似たようなことを繰返していて、ああ、この次はこうなるな――と思うと、きっとそのようになってゆくのだ。おかしいほど、乃公の想像が適中するのだよ。それからもう一つ奇妙なことがある。それは乃公のこの顔だ。その夢の中で、乃公は一つの顔を持っているが、その顔というのが、なんと今君が見ている乃公の顔とは全然違った顔なのだ。顔色だってこんなに青白いんではない、赤銅色に赭(あか)いとでもいうか。顔の寸法も、もっと長く、鼻はきりりとひきしまり、口もたいへんに大きくて、そして眼光なんか、実にもう生々としているのだ。その上に、頭髪なんども、毛がふさふさとしていて立派だし、それに勇ましい髭なんか生やしているんだ。――その豪そうな顔の男が夢の中の乃公なのさ。どうだ、随分と不思議な話だろう。だから乃公はどうかすると変なことを考えるんだ。あの夢に見る町や人々がどこかにチャンと実在するのじゃないか。乃公の魂は一つだけれど、顔の違った二つの肉体を持っているのじゃないか、などとね。ああ君は乃公の夢の話を軽蔑しているね。君の顔色で、そう思っているってことがよく判るよ。じゃあ、乃公はもっと不思議な恐ろしい話を聞かせてあげるよ、すくなくとも君の鼻の頭に浮んでいる笑いの小皺(こじわ)が消えてしまうほどの話をね。それは最近乃公が経験したばかりの実話なんだぜ)
1
或る日、一つの夢を見た。
乃公(おれ)は長い廊下を歩いていた。不思議なことに、窓が一つもない廊下なんだ。天井も壁もすべて黄色でね、とても大変長いのだ、両側には、一定の間隔を置いて、同じような形をしたドーアが並んでいた。乃公はそのドーアのハンドルを一つ一つ、眼だけギロリと動かしながら検分してゆくのだ。そのハンドルは皆真鍮色をしているんだったが、五つ目だったか六つ目だったかに、ただ一つピカピカ、金色をしたハンドルがあるのだ、それは確か廊下の左側だったよ。
「金色のハンドル!」
燦然(さんぜん)たるハンドルの前までくると、乃公の手はひとりでにそのドーアの方へ伸びてゆくのだった。その黄金のハンドルを握って、グルリとまわして、向うへ押すのだった。無論いつだってそのドーアは向うへやすやすと明いたさ。乃公は吸いこまれるように、その室の中へ入ってゆくのだった。
その部屋は十坪ほどのがらんとした客間だった。真ん中に赤い絨毯(じゅうたん)が敷いてあってね、その上に水色の卓子(テーブル)と椅子とのワン・セットが載っているのだ。卓子の上にはスペイン風のグリーンの花瓶が一つ、そして中にはきまって淡紅色のカーネーションが活(い)けてあった。
この部屋はたいへん風変りな作りだった。それが乃公の気に入っていたわけだが、奥の方の壁に大きな鏡が嵌(は)めこんであったのだ。それは髪床(かみどこ)の鏡よりももっと大きく、天井から床にまで達する大姿見で、幅も二間ほどあり、その欄間(らんま)には凝(こ)った重い織物で出来ている幅の狭いカーテンが左右に走っていた。カーテンの色は、生憎その鏡のある場所が小暗(こぐら)いためよくは判らなかったが、深い紫のように見えた。もちろんその鏡の上には、こっちの部屋の調度などがそのまま反対に映っていた。乃公は部屋に入ると、第一番につかつかとその鏡の前まで進み、自分の顔をみるのが楽しみだった。鏡の位置が奥まって横向きになっていたため、鏡の前へ立たないと自分の顔は見えなかった。――乃公はそこでいつも勇ましい自分の顔を惚(ほ)れ惚(ぼ)れと見つめるのだった。ヴィクトル・エマヌエル第一世はこんな顔をしていたように思うなどと、私は反身(そりみ)になった。鏡の中の乃公の姿も、得意そうに、反身になったことである。
鏡の前で、さんざん睨(にら)めっこや、変な表情や滑稽な身ぶりをして楽しんでいると、背後に突然人声がしたのだった。
「お飲みものは如何さまで……」
それは若い男の声だった。
ふりかえってみると、いつの間にか卓子(テーブル)の上に、銀の盆にのった洋酒の壜(びん)と盃とが並んでいた。そして入口のドーアを背にして、いま声を出したのであろう、立派な顔をしたスポーツマンらしい青年が立っている。いやそれだけではない、彼の青年とピッタリ寄りそって、一人の若い女が立っているのだった。彼等はいつの間に、どこから入ってきたのだろう。
その女は、はじめ下を向いていたが、やがてオズオズと顔をあげて、乃公の方を睨むように見たのであった。
(呀(あ)ッ)
乃公はいきなり胸をつかれたように思って、はっと眼を外(そ)らせた。ああ、その女は乃公の愛人だったのである。若い男となんか手をとりあって入ってきやがってと、乃公の心は穏かでなかった。
だが乃公は、ここで慌てるのは恥かしいと思った。飽(あ)くまで悠々(ゆうゆう)と落付きを見せて、卓子の方へ近づき、二人を背にして腰を下ろした。そして洋盃(コップ)の中に酒をなみなみと注いで、そして静かに口のところへ持っていった。
ひそひそと、若い男女は乃公の背後で喃々私語(なんなんしご)しているではないか。その微(かすか)な声がアンプリファイヤーで増音せられて、乃公の鼓膜の近くで金盥(かなだらい)を叩きでもしているように響くのであった。
(あいつら、唯の仲じゃないぞ。もう行くところまで行っているに違いない!)
乃公はぐっとこみあげてくるものを、一生懸命に怺(こら)えた。でもむかむかとむかついてくる。乃公は目を瞑(と)じて、洋盃をとりあげるなり、ぐぐーっと一と息に嚥(の)み干した。そして空になった洋盃を叩きつけるようにがちゃりと、卓上に置いたのである。――二人の私語ははたと熄(や)んだ。
乃公は慌てないで、じっと取り澄ましていた。(あいつら、なんのために、乃公に見せつけに来たのか?)乃公が気がつかないと思っているのだろうか。それならそれでいい。よおし、こっちもそのつもりで居てやろう。
乃公は震(ふる)える足を踏みしめて、椅子から立ち上った。そして二人の方を見ないようにして、静かに奥の、大鏡の方へ歩いていった。
乃公はいつの間にか、鏡の真際に寄って立っていた。鏡をとおして二人の男女の様子を見ると、彼等は身体と身体を抱きあわんばかりにして、もつれ合っていた。女の方が挑もうという姿勢をする。と、若い男の方が、僅かに逡巡(しゅんじゅん)の色を見せるという風だった。乃公の血は、足の方から頭へ向けて逆流した。
鏡を見ると、自分の顔は物凄(ものすご)いまでに表情がかわっていた。肩のあたりがわなわなと慄えているのが見えた。乃公が鏡の中から監視しているとも識らず、乃公の背後で不貞な奴等は醜行を演じかかっているのだ。乃公はすこし慌ててきた。声を出そうと思ったが咽喉がからからに乾いて声が出てこない。気を落付けなくてはいけない――
乃公は煙草の力を借りようと思ったので、ポケットに手を入れて、そっとシガレット・ケースを引張りだした。そして蓋(ふた)をあけようと思ったが、どうしたのか明かない。乃公はそれを身体の蔭でやっているのである。顔を動かすこともいまは慎(つつし)まねばならないときだと思ったので、乃公は鏡に映っているその手を見た。そしてシガレット・ケースを見た。
(おや?)
乃公はちょっと吃驚(びっくり)した。わが手の中にあるのは、シガレット・ケースではなかったから……。
(……ピストル!)
乃公の握りしめているのは、一挺のブローニングの四角なピストルだったではないか。乃公はふらふらと眩暈(めまい)を感じた。
すると、そのときだった。鏡の中の乃公はそのピストルを持つ手を静かに腹の方から胸へ上げてゆくのであった。そんな筈ではなかったのだが、乃公の意志に反してじりじりと上ってゆくのであった。奇怪なことにも、鏡の中の乃公の手は、乃公の本当の手よりも先にじりじり上へ上ってゆくのだった。ずいぶん気味のわるい話であるが、鏡の中の自分の方が、お先へ運動を起してゆくのだった。乃公はじっとしているのがとても恐ろしくなった。鏡の前に立っている自分が、この儘(まま)じっとしているなら、乃公は発狂するかもしれない。鏡の中の自分が動いて、その前に立っている筈の自分が動かないということは、とりもなおさず、鏡の前に立っている乃公の本体が既に死んでしまっているのだという事実を証明することになるではないか。
(……)
切り裂くような大戦慄が全身を走った。乃公は慌てて、鏡の中にうつる乃公のあとを追って、ピストルを持つ腕を胸の方にぐんぐんあげた。だから間もなく乃公は、鏡の中の乃公に追いついた。
(ああ、恐ろしかった!)
乃公は身体中びっしょり汗をかいた。
ピストルは、遂に胸の上いっぱいに持ち上がった。銃口がぴたりと左の肩にあたる。それから左の肩がじりじりと廻転してゆく。半眼を開いて、照準をじっと覘(ねら)う。狙いの定まったままに、なおもじりじりと左へ廻転してゆく。
「き、き、き、きっ……」
というような声をあげて、何も知らない二人は戯(たわむ)れ合う。
「ち、畜生!」
憎い女だ、淫婦め!
ちらと鏡の中に、自分の顔を盗みみると、歯を剥(む)きだして下唇をぐっと噛みしめていた。口惜しさ一杯に張りきった表情が、必然的に次の行動へじりじり引込んでゆく。引金にかかっている二本の指がぐっと手前へ縮んで……
「どーン」
あ、やった。
「……う、ううーン」
電気に弾(はじ)かれたように、女はのけぞった。そして一方の手は乳の上あたりをおさえ、もう一方の腕は高く宙をつかんだかと思うと、どうとその場に倒れてしまった。
「人を殺した。とうとう乃公は、人殺しを実演してしまったのだ!」
乃公は、床の上に倒れている女の方へ近づいた。眠ったように女は動かない。見ると衣服の胸の上に、大きな赤い穴が明いて、そこから鮮血が滾々(こんこん)と吹きだして、はだけた胸許から頸部の方へちろちろと流れてゆくのであった。――男はいつの間にか、姿が見えない。ドーアから飛ぶようにして出ていったのであろう。
「ああ、乃公は人を殺してしまった……」
乃公は呟(つぶや)いた。しかし、そのとき、どっかでせせら笑うような乃公の声を聞いたように思った。
「うん、そうだった。いま、乃公は人殺しの夢を見ているんだ。……さあ、あんまり駭(おどろ)くと、惜しいところでこの夢が覚めてしまうぞ。本当に人殺しをしたように、がたがた慄えていなくちゃ駄目じゃないか。もっと怖がるんだ。もっともっと……」
――そうこうしているうちに、乃公はそれから先の記憶を失ってしまった。女を殺した場面は以上のところまでしか覚えていない。
どうも夢の話だというのに、あまり詳しく話をしすぎたようで、さぞ退屈だったろうと思う。要は、乃公(おれ)のみた夢というのが、いかにはっきりとしたものであり、そして不思議な現象を持っているかということを理解して貰いたかったのであった。
乃公の夢は、以上の話だけで仕舞いではない。これからいよいよ、夢のミステリーについてお話したいと思うんだ。これから喋るところのものは、ぜひ聞いて貰いたいと思うのだよ。
さてそれから幾日経ってのことか忘れたがね、乃公はまたもう一つの夢を見たのだ。
――長い廊下をふらふらと歩いている……というところで気がついたのだ。
――相変らず長い廊下だ。天井も壁も黄色でね、……
「ああ、いつかこの廊下へ来たことがある!」乃公はすぐ気がついた。それに気がつくと、いけないことに、途端にもう一つのことに気がついたのだった。
「……ああ、乃公は夢を見ているんだ、いま夢を見ているんだな」
と――。
――乃公は努めて、なるべくこの前のときと同じ歩きぶりで、その廊下を歩いていった。忠実に同じような歩きぶりを示さないと、折角の夢が破れるといけないと思ったから……。
やっぱりドーアを見ていった。左側の五つ目のところに、金色のハンドルがついているのを発見した。
「これだな」
乃公はにやりと笑った。
――その金色のハンドルを廻して、室内へ入りこんだ。もちろん部屋の中も、前回等に見たと全く同じことさ。室の中央に赤い絨毯(じゅうたん)が敷いてあるし、その上には瀟洒(しょうしゃ)な水色の卓子(テーブル)と椅子とのセットが載って居り、そのまた卓子の上には、緑色の花活が一つ、そして挿(さ)してある花まで同じ淡紅色のカーネーションだった。
「ふ、ふ、ふ。ふっ。」
乃公はおかしくなって笑い出したくなるのを、じっと怺(こら)えながら室の中央に進んだ。そこで奥の方を見ると、果して例の大鏡があったのではないか。乃公はすっかり安心して、たいへんに楽な気持になった。
(役者などいう職業も、毎日同じ道具立で、同じことを演(や)るのだから、乃公がいま感じていると同じことに、初日以後は、やるたびに楽になってくるんだろう)
そんなことを思ったりした。
――乃公は例によって、いつの間にか大鏡の前に立っていた。そこに映る自分の姿をみると、例のとおり怒髪(どはつ)天(てん)をつき、髭は鼻の下をがっちりと固めているという勇ましい有様だった。
「どうぞお飲みものを……」
と、男の声がうしろでして、振りかえってみるとちゃんと例の立派な顔の若い男が立っていた。その傍には、下を俯(うつ)むいている連れの若い女さえも、前回とは寸分たがわぬ登場人物だった。
――それから乃公は、順序に随って、卓子のとこへ帰って来た。そして洋酒の壜をあけて、盃へなみなみと注いだ。それをきっかけのようにして、背後で男女のひそひそと早口で語る声が聞えてきた。
――そこで乃公は、大いに憤慨した気持になって、洋盃の酒をぐっと一息にあおる。がちゃんと盃を卓子の上に叩きつけるようにして立ち上るや、ふらふらと大鏡の方へ歩いてゆく……。
そこで乃公は、すこし薄気味が悪くなってきた、この前のひどく恐ろしかった印象が、まざまざと思いだされてきたからであった。あれから実にぞっとするようなことが起った。それは人殺しの場面を指して云うのではない。それよりもずっと前、この鏡の前に立って、自分の姿を映してみていると、自分の映った姿の方が、自分より先に動いているという。この眼にはっきりと映った異様なるあの有様……。
「あれだけは、実に恐ろしい」
乃公の身体は小きざみに震えてきた。おそるおそる一挙一動を鏡にうつして見るのだった。
――ポケットの中から、シガレット・ケースならぬピストルを取り出す……。
おお、それからだ!
――ピストルを握る手を、じりじりと胸の方へ上げてゆく。……じりじりと上げてゆく。
「はてな、……今日はよく合っているぞ」
乃公は期待した異常が今日は認められないのに、ほっと息を吐いた。しかしいつ急にありありと、二つの像が分裂をはじめないとも限らない……。
「ああ、大丈夫だ」
乃公は嬉しさと安心のあまり、声をあげようとしたほどだった。正しく異常はなかった。その途中わざと腕を上下へ動かしてみたが、実物と像とは、シンクロナイズしたトーキーのように、すこしも喰いちがいなく、同じ動作を同じ瞬間にくりかえしたのだった。
(この前のあの恐ろしい分離現象は、自分の心の迷いだったかしら!)
そんな風に思ったが、いやそんなに深く考えることはいらなかったのだ。なにしろ夢の中の出来ごとではないか。いろいろと理窟に合わないこともできる筈である。原っぱの真中にいて、机がほしいと思えば、奇術のように、ぽっかりと机が飛びだしてくることも、夢の中だから、あったとて別に不思議はないのだ。
――銃口を左の肩にあてがい、狙いを定めて、静かに肩を左に廻してゆく。男と女とは、小声ながら、呼吸をはずませて云い争っている。若い女の、なんというか恨(うら)み死(じに)するような感能的な鼻声が聞えた。……
「そこだっ、――こん畜生!」
乃公はピストルの引金をひいた。
どーン。
「きゃーッ。……」
魂切る悲鳴が、部屋をひき裂かんばかりに起った。
――見れば女は、片手で肩のあたりを抑えどうと絨毯の上に倒れたが、もう一方の腕をしきりに動かして、手あたりしだい掻き(むし)っているのだった。
「どうしたんだろう?」
乃公は不審に思って、射殺した筈の女の方へ近づいた。女はまだ死にきってはいなかった。しかし見る見る気力が衰えてゆくのがはっきりと判った。肩先にあてていた真赤な血の染(そ)んだ手が徐々に下に滑り落ちてゆくと、傷口がぱくりと開いて、花が咲いたように鮮血がぱっとふきだした。ひたひたと女の四肢が震えたかと思うと、やがてぐったりと身体を床に落として、そして遂に動かなくなってしまった。
「いやに深刻な最後を演じたもんだ」
乃公はあざ笑いながら、近よって女の腰を蹴った。女は睡っているように、動かなかった。それから乃公は頭の方へ廻って、女の顔を覗きこんだ。
「おや?」
例の昔識(し)りあった愛人だとばかり思っていた乃公は、女の横顔をみてはっとした。
「人違い……だっ」
乃公はハッと胸を衝(つ)かれたように感じたのだった。駭(おどろ)いて女の首を抱きあげて、その死顔を向けてみた。
「呀(あ)ッ、これは……」
なんというひどい人違いをしたものだ。昔の愛人だとばかり思ったが、それが大違いで、その死体の女は、紛れもなく兄弟同様に親しくしている或る友人の妻君だったではないか!
「し、しまった!」
乃公は思わず歯を喰いしばった。どうしてこれに気がつかなかったことであろう。その妻君を射殺してしまうなんて、人殺しという罪も恐ろしいには違いないが、それよりもかの親しい友人に、なんといって謝ったらばいいだろうか。
その妻君は、実に感心な女なのだった。その連れあいというのが、乃公とは随分と親しい仲ではあったが、この頃だいぶん妙な噂を耳にするのであった。彼はなんでも、非常な高利で金を貸しつけて金を殖やしているそうだったし、たった一人、自宅で待っている妻君のところへもごく稀にしか帰って来なかった。妻君は心配のあまり、よく乃公のところへ来ては、いろいろ自分の到らないせいであろうからよくとりなしてくれるように、などといって、いつまでも畳の上にうっぷして泣いているという風だった。こんな人のよい、そして物やさしい女はないだろうと思った。それを一向知らないような顔付きで、うっちゃらかしておくその友人の気がしれなかった。
そんなわけだから、乃公はたいへんその妻君に同情して、機会あるたびに彼女を慰(なぐさ)めてきたのだ。そのたびに妻君は、乃公を訪ねてきたときよりはいくぶん朗かになって帰ってゆくのだった。しかしこのごろかの友人は、自分の妻君と乃公の間を妙に疑っているらしい。それは実に莫迦(ばか)げた腹立たしいことだけれど、二人きりで幾度となく、同じ屋根の下に居たということが、禍(わざわ)いの種となっているのだった。それは実に困ったことだった。
「その問題の妻君を、乃公は手にかけて殺してしまったのだ。ああ、どうしよう」
友人に会わす顔がない。殺した妻君には、さらに相済まない。それとともに、この事件によって、友人の妻君と乃公との間の潔白は、どうしたって証明することが出来なくなったのである。乃公は妻君の死体の傍に俯伏(うっぷ)して、腸をかきむしられるような苦痛に責めさいなまれた……。
「……ああ、なんたる莫迦だろう。乃公はいま夢をみて泣いているぞ」
ふと、どこかで、自分が自分に云ってきかせる声が聞えた。なあんだ、ああこれは夢だったのだ。
入口ががたりと開いて、どやどやと一隊の人が雪崩(なだれ)こんだ。その先登には、妻君の横にいた美男子がいたが、乃公の顔をみると、ぎょっと尻込(しりご)みをして、大勢の後に隠れた。
「神妙(しんみょう)にしろ!」
警官の服を着ている一隊は、乃公に飛びかかって腕をねじあげた。乃公はいよいよこれから死刑になるのだなと思いながら、いと神妙に手錠をかけられたのであった。それから先は、さっぱり記憶がない。
以上の二つの夢を聞いて、君はどう思うか。なんと不思議な話ではないか。あまりにはっきりしすぎている夢だとは思わないか。
静かな冬の朝だった。
陽は高い塀に遮(さえぎ)られて見えないが、空はうららかに晴れ渡って、空気はシトロンのように爽(さわや)かであった。
真白の壁に囲まれた真四角の室の中で、友人の友枝八郎は、また私に例の夢の話のつづきをするのであった。
どうも乃公(おれ)は、ときどき頭が変になるので困るよ。年齢(とし)のせいでもあるまいのに、いろんなことを取り違えて困るのだよ。
このまえ君に、夢の中で同じような人殺しを二度くりかえしてやったことを話したと思うけれど、どこまで話したのかも、第一忘れてしまった。二度目の分は、たしか乃公が刑務所の未決に繋(つな)がれてから話したように思うが、たしかそうだったね。
それについてだが、乃公は滑稽な取違えをしていながら、それに気がつかないで、真面目くさって君に話をしたように覚えているがそうではなかったかね。実を云えばあの話をしているときには、君という人が夢でない方の現実の世界の人だとばかり思っていたのだ。しかしこうやって、例の殺人事件にかかわり、この刑務所の一室に相対しているところを見ると、君もまたあの夢の方の国に住んでいる人だということが判った。いままでどうしてそれに気がつかなかったろう。
乃公はどうも話が下手で弱るんだ。いいかね、もう一度云うとこうだ。君に例の夢の中の殺人事件について話をした。ところが乃公は殺人罪で刑務所に入れられてしまったのだ。その刑務所へ君はしばしば訪ねてくれたではないか。すると殺人事件のあった世の中と君の住んでいる世の中とは、全く同じ世の中だったことが証明できるじゃないか。乃公は君に夢の国の殺人事件の話をした。しかも君は、乃公から云わせれば夢の国の人だったのだ。乃公にとっては、あの事件は夢の中の出来ごとだけれど、君にとっては、君が住んでいる世の中の出来ごとだったんだ。しかし、乃公はいま、夢の国の中で話をしているのだよ。……そんなことを先から先へ考えてゆくと、頭の悪い乃公には、いつも何方が何方だかわからなくなるのだ。あとは誰かの判断に委(まか)せて置くことにして、――さて、あれから先のことを話そう。
或るとき乃公は、さっきも云ったように、刑務所の未決に繋がれている自分自身を見出したのだ。その原因が例の大鏡のある部屋の殺人事件に関係していると知って、乃公は、
「まあ、何という長ったらしい夢を見ることだろう?」
と呆(あき)れてしまった。
後で聞いた話だけれど、そのとき乃公は、もう少しで精神病院へ強制的に抛(ほう)りこまれるところであったそうだ。いいところで気がついてよかったよ。
ところでその後だんだん調べられたが、その係官の中に杉浦予審判事というたいへん親切そうな仁(ひと)がいてね、その仁が乃公の聞きもしないことを、べらべら話をしてくれたよ。それは実に素晴らしい想像力から生れでた物語なのだ。まるで一篇のショート・ストーリーのように怪奇を極めた謎々ばなしなのさ。彼の物語の真偽はとるに足りないけれど、いかにもそのこじつけが面白いから、是非話して聞かせよう。
「お前はその二つの夢を、本当の夢だと思っているか。そして、よしんばそれが夢だとしても、その二つの夢の間に、或る不審が存在するということに気がつかないのか」
と、かの杉浦予審判事は、改まった口調で言いだしたのさ。乃公は面倒くさいから、黙っていた。すると彼は得々(とくとく)として喋りだしたものである。云うところはこうだ。
「お前は、はじめの夢で、かつての愛人を射殺し、二度目の夢では友人の妻君を殺したという。もしお前の云うとおり夢は同じことを二度以上見るというならば、その被害者が両度とも同じである筈ではないか。それが違っているのは不思議だとは思わないか」
というのだ。乃公は反対した。夢は自由である。登場人物など自由奔放に変り得るものだと言ってやった。
すると彼はまた訊ねるのだった。
「お前が最初の愛人を殺したときの光景はたいへん夢幻的に美しく、かつまた単純なものだった。しかるに二度目に友人の妻君を殺したときの光景は、あまりに現実的色彩が強すぎるではないか。この点の相違を考えるとき、なにかそこに或る作為(さくい)が盛られているとは気付かないのか」
と、ひどく真面目な顔をして云うのだった。乃公はこれを聞いた直後、こいつはいいことを云うと思った。たしかに乃公は二度目の夢の中での殺人に、かなり真実に迫るものを感じたから。だが、すこし長く考えていると、判事は些細(ささい)なことを、ひどくこじつけて論じてやがるぞと思って軽蔑を感じた。
「お前は黙っとるが、少しは僕の云うことが判るらしいね」とひとりぎめをして杉浦氏はまた語(ことば)をついだ。
「いいかね、まだまだ不審なことを並べてみるよ。第一、あの部屋を何と思う。実に変な部屋ではないか。奥に入ると、髪床にあるような大きな鏡が壁を蔽(おお)っていたり、変に印象的な赤い絨毯があったり、それから椅子セットの単純な色合といい、配置といい、また花についてでもそれを云うことが出来る。一体人の住む部屋ならば、もっとこまごましたものがあるべきだが、それが見当らないし、なにしろ単純で印象的で、一度見ると、二度と忘れないようにできている。魔術師が特に設計したようなもので、部屋の形はしているが全然人間の住むに適せず、トリックのための部屋としか思われないではないか」
という。――なあに、夢の中のことだ、単純で印象的なのは当り前だと云ってやりたかったよ、乃公は。
「どうだ、いちいちお前の胸に思いあたることばかりだろう」と予審判事はいよいよ得意であった。
「それからまだあとに、実に大きな矛盾(むじゅん)が残っているのだよ。お前がはじめに見た夢の中で、たいへん恐怖を感じた場面のあったのを覚えているだろう。実は、あのことだ。お前はピストルを手にして、鏡の中の自分の姿を見た。すると奇怪なことに、その自分の姿は、ピストルを握った手を左の胸のところまであげていた。それだのにお前自身の本当の手は、ポケットからピストルを出して握ったまま、ぼんやりとしていた。つまり自分の本当の身体と、鏡の中の映像との動作に喰いちがいのあるのを発見した。お前はそこですっかり脅(おび)えてしまった。一つの霊魂を宿している筈の実体と映像との両空間に不思議な断層を発見したために、ただ訳もなく狼狽してしまったのだ。もしお前が、常人のように気をしっかり持っていたのだったら、その空間の喰い違いに、はっとして本当のことを気付かねばならない筈だった。ここが大事なところだ。常人なら、どう思うだろう。(これは可笑しいぞ。お化け鏡ではあるまいし、鏡に映った自分の姿が、自分の演(や)りもしない動作をしているなんて可笑しいじゃないか。鏡の中に映っているのは自分の姿ではないのだ!)と気がつかなければならん。つまりその大鏡は鏡にあらずして、実はその硝子板の向うに、自分と同じ扮装をしている別人が向い合って立っていて、いかにも自分の姿が鏡に映っているように思わせているのだった。そういうことが、直ぐに判らなければならなかったのだ、常人ならばねえ」
この話を聞いたときばかりは、流石(さすが)の乃公も、金槌(かなづち)で頭を殴られたようにはっと驚いたよ。――だが、そんな莫迦気(ばかげ)たことがあるものかと、憤慨した。だって室内の調度がちゃんと映っているのですよ。椅子も、卓子(テーブル)も、それから卓子の上の洋酒の盆も。いやまだある。そこに並んでいる男と女の姿もちゃんと映っていましたよ、そんな莫迦気たことがあるものですか、と反対した。
「それだから、先刻から云っているのだ。トリックの道具立がちゃんとその部屋に出来ていたのだ。鏡に映っていると思ったのは、実は大きな硝子板の向うに、もう一つ同じ形に作った部屋が見えていたのだ。同じ配列で、裏向きにしておけばよかったのだ。人間だってそうだ。こっちと向うとに二人ずつの男女が居て、鏡にうつっているように見せかけたのだよ。いや向うの部屋には、もう一人男がいた。そいつは先にも云ったが、お前と同じ扮装をしていたのだ。何しろお前は気がおかしかったから、別人の男女をさえ、同じ顔をしているように感ちがいしたのだ。そんな場合には、常人を欺(あざむ)くことさえ容易だろう。さあそこで考えなければならんのは、なぜ二重の部屋を作り、こっちと向うの空間とを同一の空間と思わせたのだろう。その答は至極簡単明瞭である。お前の偽の姿をした男が、お前にその後の動作を暗示したのだ。つまりお前にピストルで狙わせ、そしてうしろにいる女を射撃させたのだ。どーンと放ったのは、恐らく空砲だったろう、女はかねて手筈(てはず)を決めてあったとおりに、その場にぶったおれる。そして芝居もどきに、卵の殻かなんかにつめてあった紅がらを流して、ピストルに射たれて死んだ様子を想わせたのだ」
――ああ、それでは、なぜ彼は私に、そんなことをさせたんだろう、と乃公は思わず叫んでしまった。
「それは判っている。それは第二の夢の場面にお前をひっぱり出し、そして友人の妻君というのを本当に殺させたかったのだ。精神薄弱者たるお前に、再度おなじ夢を見たと思わせ、前回のとおりの射撃をやらせたのだ。そのときお前がとりだしたピストルはちゃんと実弾が入っていたのだよ。そして二度目の夢の場面には、例の硝子板の向うの部屋は使わなかった。それは向うの部屋を暗室にすることによって、硝子板を鏡と同じ作用をさせたのだ。そんなトリックはよく、博覧会などの見世物で、やってみせるトリックで、誰でも知っている。お前は心にもなく、一人の女を殺してしまったのだ」
――なぜ私は、その女を殺さねばならなかったのですか、と乃公は怒鳴るようにして聞きかえしたものだ。すると、
「それは調べて判った。その女を殺すべく企(たくら)んだのは、その亭主である。つまりお前の親友という男だ。その部屋もなにもかも、お前の友人が作ったのだ」
――いえ、それは違います。あの男は、そんな悪い人間ではありません、といってやった。
「いや、もうすっかり種はあがっているのだ。お前が弁解してやっても効果がない。お前の友人という男は憎むべき奴だ。彼は事業に失敗して大金が入用だったのだ。その妻君には莫大な保険が懸けてあった。自分の手で殺したのでは駄目だから、お前を利用して殺させようとしたのだ。妻君をあの部屋に誘いだすことも、いい加減な口実をつかってやったことらしい。妻君は案内されてあの部屋に入り、発狂しているとでもいいふらしてあったお前の姿を見させたものらしい。そしてお前に射殺されてしまったのだ。――とにかくお前がここへ来て急に頭の調子が直ってくれてよかったよ」
乃公は聞いているうちに、あまりに巧みな話の筋に、もうちょっとでひっかかるところであった。そんな手数のかかることがあってたまるものか。判事さんの邪推だと思ったのだ。
――おかしいですよ予審判事さん。どうして彼は私をうまく使いこなしたのです。
「そりゃ判っているじゃないか。お前は夢というものをどう考えているか、などということについて、いつもその友人にくどくどと話をして聞かせる病があったというじゃないか。それですっかり利用されちまったのだ」
というのだよ、君。乃公は憐れむよ、予審判事さんの苦労性をね。君は乃公のことを利用して、自分は手を下さずして君の妻君を殺させたといっているのだからね。随分失礼な人じゃないか。これがまあ幸いにも、夢の中での出来ごとなのだから忍べるが、本当の世の空間に起ったことだったら、そいつは助からない話じゃないか。
しかし予審判事さんは、あくまで執拗なんだ、困ったね。
「お前は夢の中の話だというが、それは間違いだよ。それでも夢だと思っているのだったら、その思い違いであることを証明してやろう……」
と云うのさ。――じゃ、どうするんです! と聞いてやったら、乃公のことを鏡の前へ連れていってね、
「どうだ、この鏡にうつっているお前の顔は、お前の夢の中の顔か、それとも現実の世におけるお前の顔か」
と訊ねるじゃないか。見ると、乃公の顔は青白くて、弱々しくまず丸顔だ。夢で見るあの勇ましい顔とは全然違っている。
「これは現実の顔ですよ」
と乃公は答えちまった。すると予審判事は、それ見ろというような顔をして云った。
「それは可笑しいじゃないか。お前はいま夢の中に居るのだと先刻から云っているじゃないか。それが現実の顔だとは、こいつは可笑しい。そうだろう。いいかい、よく考えて、よく覚えていなくちゃ駄目だよ。お前が有ると信じている夢の国なんて、始めからありはしないのだ。空間は常に一つだ。だのにお前は空間が二つもあって、別な顔をしているようにいうが、畢竟(ひっきょう)同一の顔なのだ。いいかね。お前の精神状態がひどくなると、すっかり人間が違ってしまう。そして頭の手入れもしないし、髭も生え放題に放って置くのだ。お前は半裸体で、むやみと野外を駆けまわり、しまいには山の中へ隠れてしまうことさえあるのだ。そこでお前は陽にやけて、すっかり顔や形が違ってしまう。ではいま、お前の見ている前で顔にすこし手を入れてみよう。まず櫛(くし)のよく入っている頭髪を、このようにぐしゃぐしゃに掻き乱して、毛をおっ立ててしまう。それから、ここにある長いつけ髭をこういう具合につけてみる。そして顔に、この褐色の白粉を塗る。……さあよく鏡を見てごらん、その顔はどうだ。お前がもう一つの世の空間で持っていると信じていた顔に成っただろう、はっはっはっ」
――乃公は呀ッと駭(おどろ)いてしまった。正しくそのとおりだ。……しかし待てよ、やっぱり変だ。予審判事さんの手際はたいへん美事なようで、実はそうでない。彼は数学を知らないも同然だ。彼のロジックはちっとも合っていないのである。すなわち彼は、夢の中の髭茫々(ひげぼうぼう)の乃公の顔にすっかり手を入れて置いて、いかにも現実の世の乃公の顔のように化粧して置き、それを黙っていたのだ。そして今、再び逆に、もとの夢の中の顔に仮装法を以て還元してみせたのだ。それでは予審判事さんの云っているような一方的の証明にはならない。やっぱり乃公はいま夢の中に居るんだ。
――と危いところで欺されようとして助かったよ。ねえ君、お互はやっぱり、いま夢の世の中に居るんだよ。……
そのとき入口の鉄扉がぎいーっと開いた。そして私の予期したとおり手錠をもった看守長に続いて、痩躯(そうく)鶴のような典獄さんと、それから大きな山芋に金襴の衣を被せたような教誨師とが静々と入って来た。
「ああ、話の途中でしょうが……」と看守長が声をかけた。「もう刑の執行の時刻になりましたので、友枝さんは御退室をねがいたい」
友人はぎくりとして、椅子から立った。そして一行の方を睨(にら)みつけながら、私の背中を抱えるようにして云った。
「君、恐れちゃいけないよ。誰がなんといっても、いまお互の立っている空間は夢の中なんだ。これから君は絞首台に登るのだろうけれど。それで生命を本当に失うんだなんて誤解してはいけないよ。結局、夢の中で死刑になるところを見ているわけなんだからね。恐れることなんか、少しもありはしない。……では、あまり気もちがわるかったら、早く夢から覚めたまえ。君は間もなく温かいベッドの上で眼を覚ますことだろう。隣りの部屋では、君の子供さんたちが、もう受信機のスイッチをひねってラジオ体操の音楽を鳴らしているのが聞えてくるだろうよ。あまり恐ろしい夢のことなんか、ベッドの上で考え続けていないように。早く飛び起きて、会社への出勤に遅れないようにしたまえ。では、乃公は失敬するよ……」といって友人は私の監房を出ていった。
そうだ、そうだ。私はやっぱり夢を見ているのだ。死刑台なんか……なんでもないぞ!